シンボルマーク・へき地教師の歌

シンボルマークについて

連盟旗作成-昭和51年11月

由来と経緯

 図柄は昭和47年度へき地教育研究大会(北海道・上川)のシンボルマークとして考案され、当時活用されていたものであった。
 一方、全道へき地複式教育研究大会のシンボルマークが年々各会場毎にかわっていることについて、長期研究計画による同一主題を継続していることについても考え合わせ、今後のシンボルマークとして統一し、これを連盟旗とした。

考 案 者

 (当時)北海道教育庁上川教育局 義務教育指導班指導主事 奈良 孝秋氏

意図と意義

 太陽を中心に位置づけ、四面海に囲まれた北海道を図案化し、陸地の部分は広大な北海道の大自然と緑の沃野を表している。
 緑と海と、山間と浜辺があり、北海道の複式教育のおかれている条件が意味づけられている。そこには900校におよぶ複式学校が点在していて、地域的に諸条件の違いはあるが、北海道(複式教育)は一つという道複連の理念も秘められていて、このことは緑一色の意味にも通じている。
 中央の太陽は、「へき地教師の歌」が最もよくいい表わしていて、道複連の燃ゆるようなへき地複式教育への情熱とひたむきなまでの希いをこめたものである。その歌詞に「教師よ教師よ太陽となって・・・」と作詞されている。
 また、太陽の中には子どもと教師の顔が配されていて子どもたちと一体になって複式教育現場の活動に心血をそそごうとする教師の姿と情熱を表わしている。
 つぶらなひとみの子どもたちの太陽となることこそ、へき地複式教師の無情のよろこびとほこりであり、道複連がその活動に生命を燃やす所似に発展している。


へき地教師の歌「太陽となろう」

 へき地教師の歌「教師(とも)よ太陽となろう」は、北海道単級複式教育研究連盟(現北海道へき地・複式教育研究連盟)が昭和45年度共同研究体制確立3期10カ年計画1年次の石狩大会のあと、当時昭和46年連盟副委員長の猪野毛  登 校長(日高平取芽生小)の発案で、同じ日高庫富小の新渡戸 常晴 教諭(俳句の号“流木”日高管内の校歌や音頭の作詞をいくつか手がけていた)に作詞を、作曲を石狩町志美小の石山 美治 校長に依頼し、8月に正式に連盟で採用、9月に行われた全道研日高大会全体会で発表、以来全道大会をはじめ、へき地小規模校などの研究会その他の会合で必ず歌われるようになった。昭和47年の全国へき地教育研究大会上川大会に全国から集まった会員にソノシートにして配り、全体会で発表してからは全国のへき地教師に広まり、全国大会では必ず歌われている。

 この歌は、常々へき地、小規模校の教師たちが共に語り、ともに励まし合い共通する気持ちを歌いあったり、また独り口ずさめる歌があったら・・・と思っていた時であり、特に共同研究体制を推進した全国に先がけての研究に体当たりしていた北海道としては必然性をもって生まれたのがこの歌といえましょう。

 この歌詞は、当初2番までであったが、昭和47年の全へき研上川大会の事前、北海道大会のシンボルマーク(奈良 孝秋 当時上川教育局指導主事制作)とともにこの歌をアピールすることとし、新に本道の風土を表わした詩を再度新渡戸教諭に依頼し3番とした。  なお、3番の詩はそれぞれの地域の特色をもりこんだ詩を取り入れ、自由にことばを入れ替えて歌ってもよいこととした。

 歌詞について作詞者の新渡戸氏は次のように言っている。「1番は農山村、2番は漁村(島・みさき・浜べ)の小規模校を詠んだ。へき地のもつ暗さより明るさを表現したかった。北海道のきびしさを粉雪・歌・氷で表わし最後を夢で結んだ・・・」

 作曲者の石山氏は「歌詞にもられている明るさと、教師の“ともよ太陽となって”の使命感にあふれているそのイメージが遠く日高と石狩に離れていてもぴったりしたのですね。歌詞を受け取って読んでいるうちに自然にメロディーがわいてきてできました。北海道の牧歌的なのびやかなもの、力量感、熱情を包含し、且つ平易で歌い易いといって皆さんが口ずさんでくれます。猪野毛氏も私も2学級の複々式、新渡戸氏も複式のへき地小規模校で燃やしていた共感が実を結んだのですね・・・」と語っている。  この歌は、へき地・複式教育に携わる者全てに声高らかに歌われることでしょう。

唄:島 純子